麻雀パラドックス31局
麻雀のスタイルはその人の性格が大きく現れる。
性格という言い方にひっかかるようなら考え方や思想と言っても良い。
オーラスでの点棒状況
東家 トップ目37000点
南家 2着目30000点 私
西家 3着目28000点
北家 ラス目5000点
ドラ
3巡目に出たを鳴くかどうか?
ここで麻雀のスタイルは真っ二つに分かれると言っても良いだろう。
鳴くも鳴かぬも正解はない。
どちらも正解であり、どちらも不正解だからだ。
あるのは考え方の違いのみ。
それを押し付けることが不正解であり、自分の選択に酔いしれる事が罪なのである。
ちなみにだが私はどうするか?
選択は鳴かないだ。
なぜか?
私が鳴く事によりある人の状況が変わってしまうからだ。
ある人とは?
3着目のプレイヤーだ。
この3着目のプレイヤーの立場になって考えて欲しい。
満貫ツモでトップという条件が課せられている。
この点棒状況なら最初の発想は満貫を作るという現象だ。
この現象をギリギリまで2着狙いに変えさせてはいけないのである。
もし2着目が3巡目に役牌を仕掛けたら3着目のプレイヤーの心はどう動くだろうか?
手牌が見えてない状況なので心理だけで語る事になってしまうが・・・
おそらく満貫ツモと同じか、それ以上に2着狙いへシフトチェンジするのではないだろうか?
打点からスピードへシフトチェンジされることが2着目の私としては1番厄介なのである。
そうでなくても親はアガリトップの状況でなんでもありの状況。
場を重たくすることの方が結局は自分に有利に働く気がしてならない。
役牌を鳴いた場合確かに自分の手は早くなるが、
それと同時に他のプレイヤーも走り出すことを忘れないで欲しい。
鳴く理由を考へればきりがない。
鳴かずに結局3着になるなんて事になったら、鳴けば良かった~と後悔するかもしれない。
この手牌で打点は無理。
2着で充分!3着に落ちるリスクを考えれば100%鳴くでしょ!
多分この発想が9割を占めているのではないだろうか?
全くもって間違いではない。
私も自信を持ってそう言いきれます。
それでも私は鳴かない。
ギリギリまでットップを目指したいし、自分の鳴きで3着目を焦らせたくない。
たったこの2つの理由で鳴かないのである。
鳴く人の発想と大した違いなんてない。
あるのは考え方の違いだけだ。
ここに正解を求めるなんてことは出来ない。
麻雀なんて正解のないことだらけだ。
大切なのは
自分の考え方で出した答えは自分だけのものであって人に理解させるものではない。
麻雀で勝つということだけが自分の選択との答え合わせなのである。
麻雀パラドックス32局へ続く。
麻雀パラドックス32局
麻雀の技術の中で最も大切なのは押し引きだ。
それは誰もが知っているであろう。
皆さんの押し引きの基準は?
その基準をとても分かりやすく書いた漫画がある。
先手・良形・高打点、この中で2つが揃えば押し。
後手・悪形・安手 この中で2つが揃えば引く。
とても分かりやすい。
しかしこの戦術はある程度誰もが実行している。
誰もが実行しているという事はその中で成績を残すためにはどうすれば良いのか?
例えばこんな2つの牌姿があったとしよう。
A⇒
東3局 南家 9巡目 ドラ 17000点持ち
B⇒
東3局 南家 9巡目 ドラ 17000点持ち
AもBも10巡目に親からリーチが入ったとします。
Aは押す為の2つの条件を満たしているが
Bは引く為の2つの条件を満たしている。
もっと書けばBのケースはが親の現物であったとしましょう。
しかし私はこの場合押し引きは逆になります。
みなさんはこの2つのケースの大きな違いが分かりますか?
簡単ですよね?
ほとんどのドラを自分が抱えているという事です。
それは何を指しているのか?
もちろん相手の打点予測です。
麻雀にはドラ以外にも手役や裏ドラがあり、結果的にドラが無くても高打点になる事は多々あります。
しかし捨て牌による手牌が読めなかったり、裏ドラなんてものはもっと読めません。
それでも明確になっているのはAB両ケースで親の打点が高い可能性があるのはどちらですか?
そう聞かれれば間違いなくAと答えるでしょう。
確かに現状聴牌というのは大きなリターンですが待ちの悪さと親リーの打点予測を考えれば
この場況で最後まで押すということは私には出来ません。
Bの場合でも押すのは残り3~4巡までです。
その間に自分の待ち牌が殺されていけばもっと早い段階で降りるか、廻ります。
大切なのは手役の打点とドラの打点は違うということです。
これが親のリーチではなくAのようなプレイヤーがいたとして
ピンズ染めが明らかであり満貫、聴牌濃厚であるなら親リーよりも警戒しなくてはいけません。
それは打点予測が出来ているからです。
Bの牌姿なら満貫打っても仕方ない!
そんな事は全くありません。
麻雀に於いて失点や放銃は仕方ないですが、自分の手に酔いしれて
一向聴にも関わらず、打点や色が分かっているのに何枚も押すのは滑稽です。
まだ東3局の序盤です。
この手牌をアガるために麻雀をやっている訳ではありません。
押すべき相手には押す。
押してはいけない相手には引く。
押し引きとは自分の手牌がどうか?だけではなく
場況や相手の打点予測、自分のアガれる可能性、
その事の方が大切な気がしてなりません。
時に引くという事は押す事よりも勇気が必要だと感じます。
麻雀パラドックス終局へ続く。
麻雀パラドックス終局
最近ではあまり耳にしなくなった言葉
『流れ』
あるのか?ないのか?
そんな疑問を1度は持った事があるのではないだろうか?
流れの解釈は人によって様々だと思うが
私の解釈はこうだ。
『運の偏り』
大切なのは偶然の偏りとは少し違うところだ。
これは持論ですが、運は線で偶然は点と捉えている。
例えば運を縦線だとしよう。
そこに横線を引き重なった箇所が偶然であり
流れとは縦線の上から波線を重ねるイメージかな~
決してピタリとは重ならないけど重なる箇所が多くなる
伝わります?
正しいか否かは別として私の運と偶然との違いはそんな感覚です。
だから何だ?
ってな事になりそうですが、
私にとってはこの流れという不確かな物が麻雀を打つ上でとても重要な気がしてなりません。
押したり引いたりの基準になることさへあります。
例えば6巡目に何気なく切った不要牌がダマの親満にささる。
カンチャンの赤5を入れて先制3面チャンのリーチが
役無しのダマペンチャンに引き負ける・・・
そんな理不尽な現象は麻雀では日常茶飯事ですよね。
これをどう捉えるか?
技術では補えないにくい部分。
つまり運の要素が強く占めている麻雀の最も難しいところだ。
これはもちろん偶然だとも言える現象ですが、
それだけでは済ませたくない私の体感データだけではなく、
禁断のデータもあります。
今の麻雀台(アルティマ)はその日電源を入れてからの収支が席ごとに確認できます。
特徴的なのは80%以上の確率で収支が偏ってるということです。
簡単に言えば、確実に良い席と、確実に悪い席が存在してるのです。
良い席はアガりやすい、放銃しにくい。
悪い席はその逆です。
しかしその現象はどこかで収束していってます。
どこか?
という箇所が非常に難しく、人が変わった瞬間なのか、ミスをした時なのか
とにかく確実に何かが変わる瞬間というのが存在してることは確かです。
運=流れと簡単に考えることが出来れば答えはすぐにでも出ます。
運が良いときはアガりやすく、放銃しにくい訳ですから
ストレートに麻雀を打てば良く、
リーチ負けや放銃が多い場合、いわゆる運が悪いと感じた時は細心の注意を払い
トップを取るという思考より、2着が最善という思考に早い段階からシフトチェンジした方が
大怪我せずにすむだろう。
もちろん、運=流れという方程式が成り立てばという話ですが。
流れを作るという事は運を良くするという事だと考えれば
流れと言う言葉にそこまでの違和感を感じないはずだ。
ただし気をつけなければならないのは、全く力のない人間が流れが悪いと勘違いすることだ。
毎回打率2割のバッターはスランプと言わないのである。
麻雀も一緒だ。
え~!それ切るの?
それリーチするの? それダマなの?
それ鳴くの? それ鳴かないの?
それ押すの? それ降りちゃうの?
そんな疑問ばかりの麻雀を打つ人が負けた時に
『流れが悪い』
そんな言葉を聞くと昔の自分を思い出してしまうww
どうすれば運を自分に向けられるか。
どうすれば良い運を手放さずにすむか。
どうすれば悪い運を払拭できるのか。
そんな事を一切考えずに麻雀が打てるのならどんなに楽か。
ツモクラテスという漫画にこんな言葉がある。
富良が積倉に
『あんたは相手をどう思ってる?』と聞くと
積倉は
『彼らは皆、いい問題を出してくれる優秀な教師だ』
そして彼は言い放つ。
『麻雀は数学のゲームじゃなくて、哲学のゲームだ』
※哲学とは?
原理を理性によって求めようとする学問。
また、経験からつくりあげた人生観。
とある。
私のいつも引っかかっていた麻雀に対しての理不尽さや不条理。
自分がどうしてここまで麻雀に惹かれていったのか・・・
それはもしかしたらこの言葉に集約されているのかもしれない。
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- 池袋駅から徒歩5分のフリー&セット雀荘